プロフィール




1955年鹿児島県奄美大島に生まれる。和光大卒。かながわ生協に勤務。

市議期目。


趣味は読書、ダンス。

中央区相模原に在住。



 

     

 私は1955年、沖縄に近い鹿児島県奄美大島で生まれ、中学3年の時まで雪を見たことがありませんでした。 
  父は漁師で、朝早く海に出ます。家は祖父母も一緒の大家族で、漁の収入は不安定でしたから、母は自家用米のための田んぼや野菜を作り、大島紬を織ったりして暮らしを支えました。その上、寝たきりの祖父の介護など大変だったと思いますが、母はいつも明るく過ごしていました。
 私は6人きょうだいの4番目ですが、長女でしたから妹たちの面倒を見たり、家事も農作業も一人前に手伝う毎日でした。学校では陸上やバレーボールの部活に熱中し、また図書館で手あたり次第に本を読むのも好きでした。
 奄美の美しい、豊かな自然の中で、あたたかい家庭や親戚に包まれて育った子ども時代が、私のその後の人生の原点になっています。

          

 父は奄美でも腕利きの漁師で、地域の人たちからの信頼も厚い人でした。
 沖縄あたりは「台風銀座」ともいわれ、海の天気は急変します。私が中学2年だったその日、父の船は、めったにない大漁で船が重くなっていた帰り、しけにあったのでした。荒波の中、救助船に手伝いの人を移し、最後に父が乗り移ったすぐ後、船は沈没したといいます。

 父は3人の娘のこれからや教育のことも考え、慣れ親しんだ海をあきらめ、一家で横浜に引っ越し、先に来ていた兄たちと自営の配管溶接の仕事をはじめることになりました。
 晩年の父は、下請けの厳しい労働で身体をこわし、奄美への帰郷を願いながら、63歳で亡くなりました。そんな父を思うたびに、好きな場所で好きな仕事につける社会をと願わずにはいられません。

       

 私は横浜に転校し、県立川和高校に入りました。バレーボールと合唱の部活動に燃えましたが、同時に父と兄たちの仕事を見て、中小零細企業の大変さを知る毎日でもありました。
 ほとんどの同級生は大学に進学したのですが、私は「はやく自立したい」と考え、高校卒業後、東京の印刷会社に就職しました。

 いかし、いざ社会へ出てみて、「まわりに流される人生じゃいけない。自分で考える力をつけるために勉強したい」と強く思うようになりました。入学資金を貯めて会社を退職し、勉強しなおして、翌年、町田の和光大学の人間関係学科に入学しました。
 よき師、よき友にめぐまれた大学の4年間だったと思います。特に社会の仕組みについて勉強しました。
 ベトナム戦争について、私は、なぜあんなに小さな貧しい国が、超大国アメリカに勝てたのかと、本を読みあさりました。それはあの優しい国民である、ベトナムの人たちが、ホーチミンの「自由と独立ほど尊いものはない」という言葉に励まされてたたかったからだと思いました。この言葉は、自分個人のあり方としても、私にとっての人生の指針の一つになっています。
         

 大学卒業後、私は学生時代にアルバイトをしていた、かながわ生協に就職しました。仕事は事務でしたが、お店にも立ち、レジも打ち、大勢の組合員の方々とお付き合いできて幸せでした。

 職場の仲間たちとも、学習会をしたり、休日にはキャンプやレクリエーションをしたり、仕事以外でも充実した日々でした。
 就職した78年の夏に、私は初めて広島の原水爆禁止世界大会に参加しました。草の根の一人ひとりが平和の声を上げ、その声を地道につなげることが歴史をつくり、動かしていくことに私は大きな感動を受けました。
 そして、社会進歩の方向に自分の人生を重ねて生きていきたい、いのちと暮らしを守り、ともに幸せになれる社会を実現したいと、その年に日本共産党に入党しました。
                  

 夫とは、大学の教育ゼミナールで知り合って7年間の交際の後に結婚しました。結婚して翌年に長男、翌々年に次男が誕生しました。夫婦共働きの生活で、2人の子どもが別々の保育園という大変な時期もありましたが、夫婦で協力し、また私の父母や近所の方々のお力も借りながら、私も仕事と子育てを両立させてきました。

 当時、私たちは町田市に住んでいましたが、住民運動に積極的に参加していきました。
 「医療費が大変」という声からはじまった、アトピーの子どもを持つお母さんたちのねばり強い運動に参加し、3歳までの医療費無料化を実現できたのはとても印象深いことでした。
 また学童保育クラブの増設運動では、保護者と指導員が一丸となって、増設が実現した時は本当にうれしかったものです。
 一人ひとりが他の人たちのことにも共感して、あきらめないでねばり強く運動していくことで、願いが実現していくんだということを学んだことは貴重な体験でした。
           
 1995年から相模原市へと住居を移しました。少年野球クラブや子ども会、自治会などのつながりで知った相模原は、新しい市民をあたたかく迎えてくれる雰囲気があって、とても好感が持てました。休日には子どもたちを連れて広々とした相模川の河原で遊べて安らげるし、川沿いには田んぼや畑があって、農作業で働く方々からお話を聞いたりすると、奄美での少女時代をふと思い出したりしたものでした。

 1997年2月の相模原市長選挙にともなう市議会議員補欠選挙に、私に立候補してほしいという声がかかりました。
 おどろいて「私は普通の働く母親、普通の主婦ですよ」というと、「全国に1500人、相模原にもすでに2人いる日本共産党の女性議員はみんなそういう人ですよ。相模原を住みよくしていくために、あなたの積極性を生かしてください」と言われ、悩みに悩みましたが、家族とも相談し、決意しました。

 補欠選挙では当選はできませんでしたが、36000票のご支持をいただき、そして2年後の1999年、市会議員選挙で初当選。以後4期16年間、多くのみなさんに支えられがんばってきました。

 失職や病気、事故など、だれもが人生の中で、予期せぬ事情で困難に立たされることがあると思います。その時にも人間らしく、安心してくらせるためには、社会保障の充実が必要です。私は、社会や政治の遅れで私たちのあたり前の願いや人間関係を脅かされる状況を、一刻もはやくなくしていきたいのです。

 「一人ひとりのいのち、輝いてこそ」。大好きで住み続けたい相模原にするために、市民のみなさんと心ひとつにして、これからもがんばっていく決意です。